九州あご文化推進委員会

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あご便り 2号

世界遺産として知られる自然豊かな屋久島は全国有数のトビウオの産地でもあります。今回は屋久島のトビウオ漁に携わる人々の暮らしぶりについてご紹介します。

屋久島のトビウオ漁の新たな可能性を見つめて

トビウオ(あご)の漁獲高日本一を誇る屋久島・安房港。
その海と日々対峙する漁師、田中実さんの生き様に迫った。

現役時代、屋久島漁業協同組合長も務めた箕作さん(右)。業務が重なり自身で船を出せなくなった時、田中さんを代行船頭に。「一番若手だった僕に、責任取るから安心して行きなさいと言ってくれて」。この経験が田中さん独立のきっかけとなった。

屋久島では、本船と片船の2隻で網を引いてトビウオ(※)の群れを囲い込む「ロープ曳き漁」が行われている。風人丸の船長・田中さんは、4名のチームで漁に出る。群れの大きさや動きを田中さんが目視で見極め、全長1500mにも及ぶ網を乗組員の岡山龍之介さん、伊藤佳代さんが投げ入れる。円を描くように引いて魚を集めたら、片船の船長である酒匂千万男(さこうちまお)さんが海に飛び込んで網の外に逃げないように直接囲い込む。この鮮やかなチームプレーが、日々の厳しい漁を支えている。

田中さんは東京出身。農業法人の季節労働者として1988年に屋久島へやって来た。住み込みで柑橘の収穫を行っていた際、トビウオ漁船に乗ったことのある同僚から話を聞いたことが転機に。「こんな昔ながらの方法で天然生物を漁獲し続けて、生計を立てる世界が残っていたとは」。この時受けた衝撃からトビウオ漁に強い興味を持ち、この世界に飛び込んだ。

屋久島では一般的に小ぶりのホソトビウオのみを「あご」と呼称するため、本文内は総称の「トビウオ」表記で統一。

田中さんの師匠である箕作永吉(きさくえいきち)さんは、屋久島のトビウオ漁に影響を与えた人物の一人だ。琉球文化圏にあった与論島出身の箕作さんが、伝統的な追い込み漁の技術を屋久島へ持ち込んだことで、現在のロープ曳き漁の土台ができた。屋久島は、北に生息するハマトビウオの南限であったり、南に生息するオオメトビウオの北限であったりと、様々な種類のトビウオが集まる地。また、箕作さんや田中さんを始め、風人丸の乗組員である岡山さん、伊藤さんもIターン漁師と、移住者が多いのも特徴だ。多種多様な魚と人が集まり、地元の人々もそれを受け入れる。この賑やかさと懐の深さが、屋久島の魅力なのだと田中さんは語る。

漁の主な1日の流れは、朝5時過ぎに出港し13時頃に帰港。トビウオを水揚げし15時には終了となる。取材当日は記録的な大漁。田中さんの漁師生活30年の中でも5本の指に入るほどで、朝8時前には帰港した。まだ漁を続けられたのではとの問いに、「数を多く獲った人が偉いという価値観には疑問がある」という田中さん。獲ることに夢中になって欲張ると、魚の鮮度はどんどん下がっていく。量にこだわってクタクタの魚を水揚げするのでは意味がない。例えば、現状のやり方を変えて船別の出荷を可能にし、鮮度のいい魚に2倍の値が付くのであれば、船同士で鮮度を保つ競争が生まれ、組合全体の向上にもつながるのではないか。そのための意識改革、仕組み改善が必要だと田中さんは感じている。

田中さんは後進の支援にも熱心だ。その田中さん所有の加工場を間借りして「だし醤油の素」の開発を行ったり、屋久島のサクラで燻した魚の薫製を製造する「けい水産」の運営をしたりと、様々な業態で魚の加工・販売に携わる人々がいる。漁業の6次産業化は実現するとなるとなかなか難しいのが実情だが、信頼できるコミュニティで協力し合い、新たな可能性を模索していきたいと田中さんは考える。大ぶりのトビウオが主流の屋久島では、小ぶりのものをわざわざ獲ることはあまりしないが、加工品の原料として提供するために網の一部の目合いを細かくして掛かるようにしたのも、そういった思いからだ。年々減少傾向にある日本の漁業生産量。「なくなるまで経験してみようと始めたら、心中するぐらいハマってしまって(笑)」。田中さんの笑顔に、屋久島のトビウオ漁の明るい未来を見た。